ごう、ごうと、イヤホン越しに繰り返し潮騒が聞こえる。やがて陽の落ちそうな海辺は、ジャケットを羽織っただけでは凍えてしまうほどに冷え込んでいた。十月末の夜の海には、遠くに見える月とわたしの他には何もなかった。お化けが出そうな気がしてイヤホンの音量を少し上げたが、せっかく海に来たのに耳を塞ぐのも勿体ないと思ってそれを外した。
みくちゃんがどこかへ消えてから一年が過ぎようとしていた。ちょうど今日みたいな風の強い夜、昼過ぎに送られてきた二日越しの返信に適当なスタンプを返して、それきり連絡がつかなくなった。単位がギリギリにならないと大学に来ないことにも、インスタは更新してもわたしのLINEには返信しないことにも慣れっこだったが、その日以来完全に音沙汰がなくなって、どこを探しても見つからない。まるで死んでしまったみたいだった。
「海に行こう」と、あるときみくちゃんからLINEが来た。
「まだ五月だよ?」
「いいじゃん、意外と見張りとかいないし」
「じゃあ八丁堀で待ってるから、サンダル履いてきてね」
大学に入るまでは一人で音楽を聴いていることが多かったわたしは、初めてどこかに遊びに行く誘いを受けて舞い上がっていた。時間は夜の九時を回った頃だったが、断る選択肢はわたしにはなかった。はやる気持ちを抑えて日比谷線を降りると、ホットパンツにTシャツだけのラフな格好をした彼女がこちらを見て笑っていた。
「早かったね、まだ二十分しか経ってない。いきなりごめんね?」
「ううん、暇だったし明日バイト夜からだから」
「よかった、そういや今日さ~」
いつも通り他愛もない会話をして京葉線を待ちながら、わたしは彼女にいきなり呼び出された理由を探っていた。電車の中や海辺まで歩く途中にも彼女はいろんなことを話してくれていたような気がするが、気になることばかりで上の空だった。
しばらく歩いていると波の音がはっきり聞こえてきた。海に来るのは小学校の臨海学校以来だったので、なんだか新鮮な気持ちだった。
「海だー!」と叫んだかと思うと、彼女は渚に向かって走り出した。わたしよりもずっとずっと垢抜けている彼女が子どものようにはしゃぐ姿を見て、温かいような、痺れるような、不思議な感覚を覚えた。それからのわたしと彼女は、今まで出したことのない大声で叫んで、帰りの電車の事も忘れて全身が濡れるまで遊んだ。
ひとしきり遊んで海岸に二人で寝そべっていると、突然彼女がこちらを向いて、
「ね、ピアス開けようよ」と囁いてきた。
「ピアス!?なんで急に?」
「いいじゃん、意外と痛くないから。結構慣れてるし!」そう言って彼女は髪をかき上げ、わたしに右耳を見せてきた。普段のわたしなら断ったと思うが、そのときのわたしは多幸感で痺れていたから。
「じゃあお願い、暗くて難しいと思うけど」
「オッケー!りんちゃんはきっとアンテナが似合うと思うけど、まずはロブね」
彼女は吐息を感じる距離まで一気に近づいて、慣れた手つきでわたしの右耳を消毒している。
「ねえりんちゃん、女の子が左耳にピアスを開けると、女の子が好きってサインになるんだって」
「そうなんだ、知らずに開けちゃったら大変だね」
「うん。待って、こっちって右耳であってるよね?」
そんな会話を何度か繰り返して、わたしは右の耳たぶに一つ穴を開けた。彼女はニードルを三本持って来ていたが、一本貫通させたところでわたしが音を上げてしまった。顔が火照って、頭がぼーっとするような感覚がした。
そのときのことを思い出して、わたしは右耳に軽く触れた。大切なものを失ってしまったときの、頭がクラっとする感覚を鮮明に思い出す。
「みくちゃん」
わたしは大きく深呼吸をして、ゆっくりと海辺に目をやると、
彼女と目が合った。
足には鱗が生え、尾びれを揺らしている彼女と目が合った。
何度目をこすってみても、その顔は、間違いなくみくちゃんだった。
すべての理性が一瞬で吹き飛ぶ。わたしはサンダルを蹴とばし、そのまま海に飛び込んだ。
「みくちゃん!!!」
手足を必死に動かして、無我夢中で泳いだ。
「みくちゃん!!!!!」
叫ぶ。自分の声と波の音がぐちゃぐちゃに混ざり合うのがわかった。息が続かない。残った力を振り絞って、目の前にいる彼女の手を掴んだ。
瞬間、わたしの体は海底に向かって沈んでいた。苦しい。息はもう吐ききってしまった。必死に水面に上がろうと藻掻いても、深く、深く、海底に向かって沈んでいる。
私の手は、みくちゃんに強く掴まれていた。振り払おうとしてもびくともしない。そのまま海底に向かって引きずりおろされる。
わたしはそれ以上抵抗しなかった。息は苦しかったが、彼女にまた会えたことがなにより嬉しかった。
私は優しく笑って、「久しぶり」と呟いた。